努力無限通信 VOL.4
テイケイ株式会社トライアスロン競技部
小原 工
今から16年前。1990年7月22日に第10回皆生トライアスロン10周年記念大会が行われた。待ちに待ったトライアスロンデビューの日。大会は他にもいろいろあったが、出るなら自分の育った地元皆生と決めていた。普通であれば短い距離のレースから始めていくものだが、僕の頭の中には距離など関係なく皆生しかなかった。
皆生トライアスロンクラブに所属していたこともあり、先輩クラブ員のほとんどが皆生を目指してトレーニングをしていたので、僕が出ようと思ったのも自然なことだったと思う。
大会前日は「やっとトライアスロン大会に出場できるんだ」と思うと嬉しくて嬉しくて開会式に出ただけで興奮していた。水球をやっていた大学3年(20歳)の頃から出てみたいと思っていたからだ。仙台大学の水泳部の後輩がスイムでトップで上がってくるのをテレビで観たり、大学の先輩にあたる八尾さん(チームテイケイ監督)が日本のトップ選手として活躍しているのをTJ誌で見ていたこともあるからなおさらだ。出場するまで3年我慢し密かに安い自転車(パナソニックのセミオーダー)を買い、ランの練習もしていた。
今日はしっかり寝て明日に備えようと思って寝床に入ったが、夏の暑さと興奮がかさなってほとんど眠れず3時の時報まで覚えていた。スタートを考えて4時に起きるはずが目を覚ますとなんと5時30分!飛び起きた。大会当日に寝坊だ。一緒に出場する弟は熟睡しておりたたき起こすと朝ごはんもそこそこに会場へ。スタートまでたぶん40分もなかったと記憶している。急いで準備をしてスタート地点に立った。目標は「完走」と人には言っていたが自分の中では「もしかしたら10番以内にいけるかも」と変な自信を持っていた。
それは水球という過酷なスポーツを8年もやっていたことと、陸上の長距離は得意で駅伝などにかり出されていたことがあったからだ。自転車は始めたばかりだったのに・・・
弟は競輪選手を目指して修行中の19歳で最年少出場、僕は体育の教師を目指してプールの臨時職員をしていた23歳。まず弟には負けるはずがないし、自分がどれだけやれるのか?楽しみでもあった。参加者は記念大会ということもあり過去最高の492名が出場した。スイムは3.5キロ。現在より500m長かったが、スイムが得意な僕には長ければ長いほど良かった。
スタートは朝7時。号砲とともに暑く長い一日が始まった。まずは得意のスイムでできるだけ差をつけておこうとスタートから飛ばしに飛ばした。船に乗ったテレビカメラを独り占めにしヘッドアップをしながらブイを確認。初めてなのでコースアウトしないよう気をつけて泳ぎ後続に5分以上の差をつけて上陸。今思うと恥ずかしいが観客の声援にこたえて自然とガッツポーズをしていた。これからとんでもなく苦しむことも知らずに・・・
1990年10月号のTJ誌をもし持っている方は見てもらえばわかるが、なんともかっこ悪いスタイルでバイクをスタートした。(本人はその当時カッコいいと思っていた!)先頭を走るのはなんとも気持ちがいい。先導者と白バイが100mほど前をはしりその後ろを颯爽とペダルを漕いでいく。自分の実力も忘れて追いつかれたくない一心で飛ばしすぎた。おまけにこの日は目茶苦茶暑い。60キロ地点の淀江町でもはや脚が動かなくなりつつあった。練習ではこんなに苦しくなかったのに・・・でもまだトップを行っていたので我慢した。70キロ過ぎ「兄貴、一緒に行こう」と涼しい顔をした弟が追いついてきたが「先に行け」というのがやっとだった。90キロ地点の中山町の折り返しはまだ2番目。
エイドで止まってドリンクを飲んでいるとボランティアの人がスポンジを押し付けてきたので脚がふらつき落車。それをまたテレビが映していた。もはや僕のバイクパートは完走モード。大山を下ったところのカーブで2回目の落車。抜いていく誰かが「大丈夫か?」と声をかけてくれた。何人抜かれただろう?何とかバイクゴールにたどりつき、得意の?マラソンをスタートするとまだ6位に位置していた。でも、これから42キロも走れるのというのが正直なところだった。
とにかく暑い!気温は35度を超えていた。良く考えるとバイクでほとんど食べていない。というより暑すぎて飲むことしかできないでいた。途中何かを補給したかどうか今は思い出せないが、境港の折り返しは11位で通過した。まだ目標の10位以内は達成できるかもとあきらめないでいた。弟はすれ違いで独走している。中学の同級生がたくさん応援してくれている。絶対歩かないと思っていたがエネルギー切れか身体が痺れてどうにも走れなくなってしまった。目の前は薄くもやがかかったように白くなっていた。歩いたとたんどんどん抜かれていく。もはやそんなことどうでもよくなっていた。「もうやめよう、こんな苦しいこと」と思いながら歩いたり走ったり。情けなかったけどゴールだけはしようと思った。最後の直線には赤い絨毯があり「お帰りなさーい」のアナウンス。周りには沢山の祝福の声。こんなに遅かったのに・・・マラソンに4時間50分も費やしフラフラでゴール。50位。50歳を超えた人にも抜かれトライアスロンの過酷さを思い知らされたが、テープを切った瞬間今まで感じたことのない感覚から鳥肌が立ち「何年かかるか判らないけどこの大会で絶対優勝する!」と目標を定めた自分がそこにいた。この日弟は3位に入り一躍すごいやつが現れたと騒がれたのでした。
この10回大会を綴った記事に高石ともやさんが「10年後の皆生トライアスロンはどうなっているのだろう?変わっているような気もするし、変わっていないような気もする。」と書いておられる。
ルールやコースは変わったかもしれないが今年で26回を終えた皆生大会の原型は今も変わらず自然派で人情派の暖かい大会です。大会にかかわるすべての人たちの努力の賜物なのです。これからもみんなで支えていきましょう!