努力無限 皆生から世界へ⑧
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努力無限通信 vol.8
テイケイ(株)トライアスロン競技部 小原 工

みなさんこんにちは。いよいよ第27回皆生大会の申し込みが始まりますね。出場を考えておられる方はこの暖冬のおかげでいつもより早い始動をされていることでしょう。

私の住む猪名川町も昨日と一昨日は朝こそ氷点下一度でしたが、日中は14度まで上がり雲ひとつ無い天候。2月でバイクシューズカバーがいらないのは今までなかったのでは!?一体地球はどうなってしまうのかと心配だなぁ、などと思いながらバイクに乗ってきました。晴天の青空の下、冬場は寒くていかないコースを選択。ポカポカと暖かく「もう春?」と勘違いしてしまいそうで不思議な感覚でした。途中あまりにも気持ちよくサイクリングのつもりが自然とペースが上がっていて、メーターを見ると時速35kmを超えていました。でも全然きつくないし、いくらでも走れそう。これって「ランナーズハイならぬトライアスリーズハイかな?」などと訳のわからないことを考えながら気持ちよく乗ってきました。みなさんはこんなふうになったことありませんか?

*兵庫県郡市区対抗駅伝

2月4日に兵庫県の加西市で県の郡市区49チームによる駅伝大会に川西市の代表で出場してきました。
阪神地区の大会ではBチームだったので出番はないかと思っていましたがまたもやアンカーに指名され奮闘してきました。
この大会は兵庫県のレベルの高さを象徴するものでニューイヤー駅伝や箱根駅伝、全国高校駅伝を走った選手が数多く参加しチームによっては非常にレベルが高いのです。
我が川西市は運良く?エリートランナーがおらず、うちのチームテイケイの選手が主力になって田山(1区10k)、杉本(4区8.2k)、三木(5区6k)、小原(7区6k)が参加あとの3名は中学生2名と高校生1名のチーム構成。昨年28位だったので今年は20位以内に入り3部から2部に昇格することが目標。アンカーの自分のところにタスキが来るまでには順位はほとんど決まっているだろうと気楽にかまえていました。
ところが・・・なんと田山がトップから1分遅れの14位(30分40秒)で2区につなぎ、その後も15,16位を行き来しアンカーの私に16位でタスキがきたのです。後ろからは沢山のチームが追ってくる。
「これはやばい!4人抜かれたらえらいことになる」と内心思いつつ最初から全力で走りました。途中2人に抜かれるも1人抜き返し17位でゴール(2時間15分)。
なんとか2部昇格の役目を果たしホッとしました。ちなみに優勝は大人の区間を山陽特殊製鋼の選手でかためた姫路市(2時間07分)でした。

*1991年鳥取浦富合宿その2(vol.6のつづき)

いよいよバイク300キロの途方もないトレーニングへ出発。果たして自分は完走できる
のだろうか?と思いつつ緊張しながらも行くしかない。道を知っているのは自分だけ。
後ろに八尾、音川、富井のバイクの強いチームテイケイ3選手をトライアスロンを始めて2年目の若僧が引っ張った。サポートカーにはキャファの辻本さんがついてくれた。
鳥取市を抜け一路米子市へ向けてペダルを回すが遅いと思われるのが嫌だったのでアベレージ30kを心がけた。国道9号線を西へ西へ。車が多いので旧道のあるところはそっちへ入る。ハンガーノックにならないよう途中途中補給もしながら・・・

90kmを超えたあたり。もうあと数キロで米子というところで八尾さんが松江往復をやめて「この辺から皆生トライアスロンのコースに行けへんか?」と。「え、ここから皆生のコースに行くんですか?きついですよ!」と私。「かまへん。コース教えてくれや」と言われるがままコース変更。今から大山(だいせん)上るのかと思うとさらに気が重くなった。スタートから130キロを超えたあたりから足が重くなってくる。
大山道路をなんとか走りきり今度はアップダウンの連続する淀江町へ。半分の150キロは通過したが、足が言うことをきかなくなってきた。先頭でコース誘導することが出来なくなり、後ろから「そこ右、そこ左です」と声をかける始末。しまいには途中途中待ってもらいながらもペダルを漕ぐが体中が痺れ、ハンドルを握る手が震えてきた。でも水球をやっていた時の根性出さねば「ここでは終われない」と思いつつも気持ばかり。もはや恐れていたハンガーノック状態。198キロ地点の中山町で「ここでやめておけ!」と宣告されサポートカーに収容された。
情けなく涙が出そうになったがその時の自分にはどうしようもないきつい試練であった。

その後は車の中から3人のはしりをじっくりと見せてもらったが、200キロを超えてもペースが落ちず感心しきりだった。昨日の疲れも見せず、この人ら相当練習しているのだろうなと思うばかりであった。でもいつかは「この人らに追いついてやる」とも密かに思っていた。
驚いたのはスタートの浦富の宿舎に戻ってきてからだ。距離が280キロだったけど、ここで終わりだろうと思っていたら「あと20キロ行くで!」と八尾さんの声。音川さんも富井さんも渋々だったかは忘れたが、道に消えていった。
アイアンマンレースに挑戦するということは、一切妥協なしなのだと教えられた気がした。「本当にすごい人たちだ」と。

この合宿に参加しトライアスロンに対する姿勢が変わったのはいうまでもない。途中から永遠のライバルとなる谷新吾もこの合宿に名古屋からやってきて初めて顔を合わした。
一緒に練習した彼も同じことを思っていたに違いないと思う。この年の7月、第11回皆生トライアスロン大会で谷と勝負したが彼が優勝。私はマラソンで遅れて2位だった。
その後、谷はテイケイの選手となりアイアンマンの道へと歩んでいく。自分は仕事をしながら皆生優勝を目指した。